こちら葛飾区水元公園前通信876

tenshinokuma2018-05-21

 こんばんは
 お元気でしょうか。
 
 今、発売中の電気と工事で、IoTの記事を書きましたので、いちおう告知しておきます。
 まあ、特定の方向けなので、報告くらいで。

 東京ヤクルトは、なんだか今年も弱いですね。最下位独走中です。開幕時は悪くなかったのに。バレンティンは好調だし、山田も坂口も悪くないんですけどねえ。

 そういうわけで、先日の土曜日、5月19日に、前々から行きたかった、表丹沢をトレッキングしてきました。
 20年前はわりと平気で歩いていたコースです。でも、ブランクがあって、体重も10キロくらい増えていて。まだ歩けるのかどうか、確認したかったというのがあります。
 陣馬山―高尾山の縦走はできているので、次は、と。
 今回は、一般的なヤビツ峠ではなく、その手前の蓑毛から出発しました。以前も、だいたい蓑毛から歩いていたのですが、その理由は単純で、バスの本数が多いこと。ヤビツ峠までのバスを待つよりは歩く、ということです。
 もっとも、蓑毛からヤビツ峠までの道は、思ったよりあったな、と。ただし、この先、表丹沢尾根ではあまり見られない、渓流沿いの道や森の中の小さな花など、けっこう見どころはありました。
 さらに今回は、塔ノ台をまわりました。手軽なハイキングコースがあって、天気がいいと富士山も見える、というところです。残念ながら、くもり空で景色は堪能できなかったのですが。ここは、秋がおすすめです。一面のすすきの原は、なかなか感動的です。
 ということで、通常ならヤビツ峠から車道を2キロくらい歩いたところに表丹沢の登山口があるのですが。ここまで山を越えてきたので、すでに疲れてしんどいです状態でした。
 まあそれでも、二ノ塔、三ノ塔、行者岳、大日、そしてピークにあるのが塔の岳、と歩きました。ヤビツ峠からの距離は約7キロかな。でも、アップダウンが多く、へろへろになって歩いていました。表丹沢尾根のいいところは、見晴らしがいいこと。森は基本的に広葉樹林で、5月はまだ新緑が残っています。ところどころ、草原になっている尾根筋もあり、ここがまた開放的なんです。ツツジなんかも咲いていて、オレンジやピンクのアクセントになっています。
 アップダウンで体力を消耗するだけではなく、岩場みたいなところもあって、軽いトレッキング、というわけにはいかないですね。でも、鎖につかまっての上り下りも楽しいのですが。
 アップダウンはどのくらいかっていうと、スマホの記録では、約400階分となっています。蓑毛から登っただけで100階分あったわけですが。比較すると、陣馬高原下から高尾山までで270階分でした。距離も実は陣馬―高尾の方があるんです。
 塔ノ岳で少し休んでから、いつもは水場に下りていって、水を汲んで帰るというのがお約束でした。そこまで100mくらい歩けばいいと思っていたのですが、山頂から300m先でした。疲れた身体でそこまで降りて、また登ってくるのかと思うと、ちょっとしんどいよな、と思ったのですが、水を汲んできました。汲んだ後、後悔しました。でもまあ、登ってしまえば、おいしい水を汲めて良かったなって、後悔など忘れてしまうのですが。ここも、記憶では、もっと軽く上り下りしていたはずなんですけどね。
 帰りは大倉尾根。バス停まで7キロ。そんなにあったっけ? 大倉尾根は何回か下ったことはあるのですけれど、たいくつで急な下りばかりでいい記憶はなかったので、時間があれば、鍋割山経由も考えたのですが。
 それと、大倉尾根は、実は登ったことはないんです。それで、一度くらいは登ろうと思っていて、秋にどうかな、と考えていたので、その前に降りてみるのもいいか、と。
 でも、大倉尾根ってしんどいだけで、景色がいいわけでもないし、見るところもないし。ほぼ下りだけなので、体力よりはバランスという感じだったのですが、あまり楽しくない下山でした。大倉尾根を上る、という企画はやめようかな。
 大倉尾根の唯一いいのは、ところどころに茶屋があること。あまりがんばんないで、疲れたら茶屋でおしるこでも食べて引き返すくらいでいいのかもしれません。秋はそうしよう。
 結論から言うと、最後まで歩けて良かった、というのはあります。それでも、20年前よりははるかにしんどいと感じたのは、体重のせいか年齢のせいか、どっちでしょう。
 あと、鹿に会えなかったのは残念だな。
 GWの後だからなのか、天気予報が雨だったからなのか、人は少なく、おかげで静かなトレッキングができました。

 丹沢は金町から行きやすいし、交通費もあまりかからないので、6月のトレッキングも丹沢を予定しています。

 ようやく、アンドレア・ドウォーキンの「ポルノグラフィ」(青土社)を読み終わりました。ポルノグラフィが、女性に対する支配・暴力という文脈でつくられているというのは、その通りだと思います。マルキ・ド・サドジョルジュ・バタイユもそうした流れで、思いっきり批判されています。「眼球譚」のあらすじの紹介など、ドウォーキンの手にかかると、どうしようもない小説だなあ、と。他にもさまざまな作品のあらすじが紹介されていて、正直なところ、笑えます。
 サドは読んだことはないので、ドウォーキンの批判がどれだけ的を得ているのかはわからないのですが、「Oの物語」など、文学とされているポルノグラフィが、男性が女性を支配する社会という文脈の中で執筆されてきたことは否定できないと思います。
 というか、ポルノグラフィに限らず、そうした文化の中で多数の「芸術的」とされる作品が製作されてきたことは、きちんと批判すべきだとは思います。でも、だからといって、そうした作品の存在そのものを否定するというのは、別だとも思うのですが。あったものをなかったことにすることはできない、ということです。
 問題は、マジョリティ(人数だけではなく権力の面でも)によるマイノリティ支配という暴力が、マジョリティの側から描かれる限りは、マジョリティはそのことに気付くことはないということなのだと思います。ポルノグラフィがいけないのではなく、ポルノグラフィの文脈で製作されるものがそこに位置しているということだと思います。けれども、それをポルノグラフィ批判としてしまうことで、ドウォーキンの問題提起がぶれてしまうのではないかと思うのですが。

 というようなことは、ポルノ被害と性暴力を考える会編「森美術館問題と性暴力表現」(不磨書房)も同じなんですけど。

 では、そうではない見方はどうか。守如子著「女はポルノを読む」(青弓社)を読みました。ドウォーキンやマッキノンの立てた問題に対する別の答えとして、守はポルノグラフィを、主にエロ劇画、美少女コミック、レディスコミック、ハードBLを対象に研究・分析しました。元々、博士論文だったそうですが、女性もまたファンタジーという枠組みの中でポルノを楽しんでいる、という指摘は、ドウォーキンやマッキノンのポルノグラフィ批判とは大きな差があります。
 むしろ、ポルノグラフィとして、制作されたものが、どのように安全に配慮しているのか、していないのか、という議論は興味深いものがありました。

 最近は、こんな本ばかり読んでいるわけです。
 それにしても、NHKのドラマ「デイジーラック」は、民法の「逃げるは恥じだが役に立つ」の二匹目のドジョウを狙って、失敗したかな、という気がしました。
 それよりも、「ヲタクに恋は難しい」が、普通によく似た趣味を持つ男女の理解しあえる快いオフィスの恋愛物語というふうになっていて、実はけっこう好きだったりします。主人公にはタバコをやめていただきたいのですが。

 ではまた。