こちら葛飾区水元公園前通信864

 こんばんは。

 今週は雨ですね。土日は町内の祭礼だったのですが、宵宮だけであとは中止。雨の中、テントをはったり片づけたり。そんなこんなの終末でした。

 世の中、解散総選挙でばたばたって感じです。
 選挙結果の予測は、暗い気持ちになるものですが。そういう中で、結果はどうあれ、立憲民主党が盛り上がっているのはいいことだと思います。民進党が分裂したことで、リベラルという言葉があらためて注目されました。そのことが対立軸として明確になったということが、良かったということです。

 でもリベラルって何か。自由主義? でも新自由主義とは違うしなあ、とか。
 保守や革新とは別の概念だし。
 ぼくは、人が人としての権利が守られることだと思っています。立憲というときに、よりどころとなるのは、日本国憲法だし、そこでの権利というのがいわゆる基本的人権
 結局のところ、対立軸っていうのは、個人が尊重されるのか、国という形が優先されるのか、そういうことなんじゃないかって思います。
 そして、そういうことが、たくさんの人々に共有されるようになる、そのはじまりになればいいかな、と思っています。

 9月は尾瀬でしたが、今月は大平山に行ってきました。体育の日に、ふと、思い立って。
 大平山や栃木県にある低山で、小学生の遠足コースです。ぼくも行きました。そうハードな山ではないので、散歩くらいの気持ちで、歩いてきました。
 最寄り駅は、東武日光線新大平下駅。新じゃない大平下はJR両毛線駅です。
 登り始めて、いきなり道の真ん中で蛇に会いました。マムシとかではないし、ちょっと種類はわからないけど、木の枝だと思っていたら動くので、びっくりしますよね。
 小学校のときの記憶とちがっていて、けっこう階段が多いし、そもそも大平神社は記憶になかったし。山頂からの下りがやたらと急だし。大平山より少し高い晃石山まで足を伸ばしたけど、山頂付近、ザトウムシがたくさんいたな。
 奥多摩とちがって、林業ができるような山ではないので、山としたら里山みたいなものかな。広葉樹林なので、春に行くと緑がきれいかもしれません。

 遠足であと記憶にあるのは、足利にある織姫山。そこもそのうち行ってみようかな。東武線なので近いし。
 といいつつ、来月は高尾山を予定しています。紅葉を見に行くというお題で。

 通勤時間がなくなったとはいえ、出かけることもあるけど、読書量はちょっと減ったかな。
 そんな中でおもしろかったのが、「中国現代戯曲集6」(晩成書房)で、過士行という人の戯曲が4本収録されています。ずっと本棚に入れっぱなし。1−5は読んでいたけど。
 「ニイハオ・トイレ」という戯曲は、70年代、80年代、90年代のトイレが舞台という3幕。それぞれの年代の中国がどうだったのか、くわしく知っているわけじゃないけれども。どんな舞台なのか、気になります。
 主人公は公衆トイレの管理人。人の本質的なところに引きずりおろして時代を描くという。そして時代に応じて人が変わっていく。すりの常習犯が社長になっていたり。極端な設定、極端な中国の変化。そんなものを笑いにくるめてしまっています。
 「カエル」という戯曲の初演は日本でした。というか、日本で上演するという要請で書かれたもの。中国ではなく、地球温暖化などグローバルな問題が、同じような時間の流れで描かれている。舞台は床屋だけれど、海面上昇でどんどん水に沈んでいく。
 何だか、世界そのものが、20世紀末の中国のような大きな変化にさらされているみたいですね。

 キャンディス・フレミングの「ぼくが死んだ日」(東京創元社)は、気の利いたヤングアダルトのホラー。主人公は幽霊の導きで、問題があって埋葬された子供の墓にたどりつく。そこで、幽霊たちが、自分の死について語る。そのひとつひとつが気の利いたホラーの短編になっている、というしかけ。幽霊屋敷に願いをかなえるアイテム。
 幽霊になった子供たちは、みんな孤独の中で生き、そして死んでいる。孤独の中にいたおかげで、人から忘れられてしまう。そんな子供たちの話でもあります。
 だから、ラストがちょっと胸にしみます。いいなあって。

 カナダ大使館から、記者会見の案内が来たので、行ってみたのですが、それが、カナダ建国150周年記念の一環として、若くして亡くなったネリー・アルカンという作家に関するもの。彼女は大学生のときから高級娼婦となり、その経験を書いた小説「ピュタン」がベストセラーに。その後も何作か書いたけど、30代で自殺してしまう。PARCO出版から本が再刊され、今月末には映画が公開、そして松雪泰子他の出演で11月から舞台。
 本のレビューはトーキングヘッズ叢書に書いたのだけれど、それとは少し違うことも。例えば、アルカンがもっとポジティブな性格だったら、鈴木涼美みたいな感じかなあ、とかも思ったのです。それとも菜摘ひかるかな。菜摘も若くして亡くなっているんだけど。
 本のコピーは「偽りのセックスにまみれながら真の愛を求め続けた彼女の告白」というもの。でも、そんな単純なものなのかな。というのも、主人公が男性だったら、成り立たないんじゃないかと思うからです。ゲイならともかく、ストレートだったら。
 男性が優位な社会において、しばしば女性は何かを欠落させているような状況に置かれる、ということなのではないか、そう思います。その中で、セックスということでしか自分の価値を確認できない、というところに陥る。それは優位な立場にある男性にはないことだと思うのです。誰もがそうだとは言わないけれども、アルカンにも鈴木にも菜摘にも同じものを感じるし、だから稼いだお金の使い方も似ています。
 アルカンは結局、何かよりどころのなさに絶望してしまったのではないでしょうか。そして、そのよりどころのなさは、さまざまな面を持っているし、その面のどこかで誰かが共感する、そこにこの作家にひかれるところがあるのだと思います。
 ぼく自身、フェミニズムの影響を強く受けているのだけれど、その上で、表層的にポルノグラフィやAVやオリエント工業ラブドールを批判しているフェミニストは、その欠落の部分までたどり着けていないのではないかという気がする、今日この頃です。

 欧米以上に女性に対して抑圧が強いのがイスラム社会です。ふと思い立って読んだのが、マルジャン・サトラピの「ペルセポリス」(バジリコ)全2巻です。
 イラン生まれの主人公マルジの少女時代から青年時代までを描いたマンガです。女性に対する抑圧には最初から疑問の目を向けている、まあ両親や祖母の影響はあるし、比較的裕福な家庭であるということもありますが。親もマルジはイスラム世界にいたらいけないと思ってオーストリアに留学させるし。背景にはイスラム革命とかイラクとの戦争とかもあって、でも、本音では誰もが自分らしくあるべきだと。戦争なんかで国家につぶされるのはごめんだし、とか。イスラム社会で自分でありつづけ、結局は飛び出てしまうマルジは、それでも故郷を失ってしまうという点ではちょっとつらい、そんなところもあります。
 サトラピとアルカン、それぞれの父親の違いっていうのも、あるかな。サトラピの父親は、理解者として彼女を外の世界に送りだす。アルカンにとっての父親は愛の対象ではなかったのかな。その距離感の違いも大きいなって思います。

 それにしても、自宅で仕事をすることが増えると、運動不足になりますね。気を付けないと。プールもなかなか毎週は行けていないです。