こちら葛飾区水元公園前通信822

tenshinokuma2014-10-08

 こんちは。
 もう10月、今年もあと3か月を切ってしまったという。月刊誌の仕事なんかは、そろそろ新年号に着手、ってなところです。
 
 最近、ウォークマン(ipodではなく)を聴きながら、江戸川の土手を自転車で走るのが、けっこう楽しかったりします。そのまま、江戸川放水路まで行って、ハゼ釣りもしてきました。

 オリバー・ストーンとピーター・カズニックが昨年夏、日本に来て広島、長崎、東京、沖縄で講演を行なった、その記録を含めた「よし、戦争の話をしよう。戦争の本質について話そうじゃないか」(金曜日)を読みました。
 映画監督のストーンは「語られなかった米国史」というテレビドキュメンタリーを作成しているのだけれども、それはぼくは見ていないのだけれど、つまりは米国の帝国史というか、戦争をあちこちで展開していった、その背後の語られない歴史がテーマらしい。
 例えば、広島と長崎に原爆を落としたのは、原爆を実戦投入してみることと、それをソ連に見せつけるためであって、戦争を終わらせるためではなかったという。しかし、米国では原爆によって日本の本土決戦が避けられ、100万人レベルでの米国兵の被害が回避された、と教えられる。原爆がもたらす非人道的な悲劇は教えられない。
 ストーンは米国大統領がケネディを除いて戦争に向かい、日本の首相は米国によってクビにされた鳩山由紀夫を除いて米国依存だという。
 そういう難しい話よりも、実はロードムービー的な感触がなかなか気持ちがいい本なのだけれども。

 この本では、鳩山自身も寄稿している。
 それで、あらためて思うのは、鳩山由紀夫って、きちんと評価しなきゃいけないなっていうこと。宇宙人とか政治を投げ出しちゃった人、みたいなネガティブなイメージを持つ人が多いけれども、それはほんと、多くの人がいまだにネガティブキャンペーンから抜けていないっていうか。朝日新聞へのネガキャンとまったく同じで。それによって、大事なものが置き去りにされていると思います。

 どうして鳩山を再評価しなきゃいけないのか。
 実は、ずっと「新しい公共」をきちんととらえないといけないと思っているからなんです。それは、逆に、来年4月施行の改正介護保険制度の、とりわけ地域包括ケアに、強い違和感を持っているからでもあります。

 そもそも、地域包括ケアという言葉が、あまり人々に伝わっていないとは思うのですが。
 これから、要介護の高齢者がさらに増えるのですが、施設の増加はそれに追いつかない。そこで、在宅ケアを拡大していく、ということです。
 また、在宅ケアのうちでも、要支援に対する生活支援サービス(家事など)と介護予防は、介護保険による個別のサービスではなく、自治体によるボランティアを活用した事業にしていこうというものです。
 介護保険料をそうそう上げられないし、お金もないので、地域のことは地域でめんどうを見る。そのために地域づくりをして、地域をケアしていく。とまあ、そんな話です。

 ちょっと見、「施設がないから家庭に押し付けかよ」と思われるかもしれません。でも、そんな簡単な話ではなく、そもそも高齢者世帯が在宅、ということですし、家族がいる高齢者の方が施設に入るのではないか、とも思います。

 違和感というのは、こういうことです。
 確かに地域コミュニティは崩壊していて、それを再構築していくというのは、必要だと思いますが(うちの町内会でも、加入率は5割を切っている。年金で生活している高齢世帯が、お金が払えないとか組長ができないとかで脱退するっていうのは、話が逆じゃないか、というくらいに)、それは地域包括ケアとは別の話です。そんなこと以前に、安心して暮らせるような、地縁をもう少し強くしていこう、という。また、退職団塊世代が地域に戻って来て、孤立しないようにしなきゃ、とも。
 そして、それは要介護の高齢者のめんどうをみるということとは別の話です。
ところが、ボランティアをさせて介護保険の予算を節約しよう、というのは、上から目線の失礼な話です。これは、政府なり行政なりが、「お金がないから、地域でお願いしたい」と頭を下げる話だと思うのです。本当に、地域包括ケアを行政職員やこれを支える有識者(例えば堀田力)が上から目線で語るのは、かなり不愉快です。

でも、実際には、地域はボランティアの力がないとまわっていかないということも事実です。高齢者福祉だけではなく、防災もそうですし、放課後の小学生が過ごす場も、学童保育だけでは十分ではなく、実際に地域の方々が学校で子どもたちにつきあってくれているところもあります(葛飾区とか品川区とか)。
鳩山が新しい公共と名付けることで、地域のボランティア活動に対し、上から目線ではなく、地域の人々をリスペクトする、そんな視点を感じるのです。
地域包括ケア、とか、そんな言葉ではなく、できること、必要なことを埋めていく。そうじゃない部分は行政でやっていく。そうだとしたら、例えば、生活支援をそのまま介護保険制度のサービスとして残して、そのかわりに防災や児童福祉にボランティアを使ってもいいし、そういったことは地域・自治体が判断すればいいことです。また、そのために介護保険料をどうするかも。もう少し高くなっても、生活支援サービスがあった方がいいという判断もあってもいいと思うのです。

また、生活支援サービスが自治体のボランティアを使った事業になっていくこと、これが機能しなければサービスそのものがなくなる、あるいは使いにくいものになる、ということそのものに、批判があります。でも、実際には、トイレ掃除と風呂掃除さえしてくれれば、一人で暮らせる、といったケースもあるでしょう。

在宅を推進していくということも、要介護者がなるべく自宅・住み慣れた場所にいたいというのは、その通りだと思うのです。
そして、これをうまくやるために、住宅を病室、道路を病院の廊下ととらえるような、訪問看護訪問介護を拡大させたい、ということなのですが。
ここでも、話が逆なんじゃないか、と思うのです。
施設をつくるのにお金がないから、在宅で、ということももっと正直に言うべきです。
また、在宅の方が高い技術が必要ですし、移動にも時間がかかります。ということは、かえってマンパワーが必要になるということです。
ところが、実際には、とりわけ訪問介護で、施設介護よりも労働単価が低いし、非正規雇用の割合が高い、というのが現実だということです。移動に時間がかかるため、「生産性が低い」ようにとらえられているのかもしれません。
一応、介護報酬とか、それなりに考えてはいるようですが。
それでも、在宅を推進するということは、「ハコ」ではなく「人」にお金をかける、ということであって欲しいと思います。

とまあ、そんなわけで、一見すると良さそうな、改正介護保険法の地域包括ケアとか地域支援事業とか、在宅介護とか、あるんですけれども、問題のすりかえがあって、そこがすごく違和感、ということでした。

まあでも、日本人は問題のすりかえに弱いですよね。
朝日新聞の問題も、「誤報」の問題が「従軍慰安婦はなかった」という問題にすりかえられるし。吉田調書の公開も、朝日バッシングではなく、本来は調書がどのような問題を明らかにしているのかの検証が必要なんでしょうが、すりかえられています。
朝日新聞もおどおどしていて、ダメじゃんって思うのですが。朝日新聞がするべきことは、あらためて従軍慰安婦に関する事実を、ルポルタージュしていくことなんじゃないでしょうか。まあ、ぼくもずっと昔に朝日新聞から東京新聞にかえてしまったのですが、朝日新聞には知った顔もいるし。
ホント、困ったものだと思います。

10月からの新番組。一番楽しみなのは、実は「深夜食堂3」だったりします。
今のところ、見たのは「デンキ街の本屋さん」だけですが、これは笑わせてもらいました。

あと、大野更紗の「困ってる人」(ポプラ社)が面白かったので「シャバはつらいよ」(ポプラ社)も買ってしまいました。