こんにちはです。
今回はめずらしく、宣伝はなしで。まあ、来月は、しっかりあるので。
結局、Wii Uは買いました。買った後、Wiiは壊れていなくて、ルーターの配線の問題だったことが判明して。まぬけです。でも、せっかくなので、Wii Uで。
ゲームは基本、ハードディスクにダウンロード。これで、モノがなくなってすっきり、です。
でもそうすると、クリスマスには、サンタクロースが夜中にきて、ゲームをダウンロードしてくれるのでしょうか。サンタとしては便利ではありますが。
ということで、夏休みももう終わりですが、いかがでしたでしょうか。
ぼくはというと、仕事に追われて、2日間しかとれませんでした。もう一日くらい、9月にでもとろうと思っています。といっても、自営業なので、仕事をしない日をつくればいいだけなんですけどね。
それに、PTA会長とかしていると、土曜日がよくつぶれます。その代休というのも。って、なんかちがうか。
夏はというと、ハゼ釣りです。今年も、江戸川放水路に行きました。まあ、それなりに釣れました。9月にも、また行く予定です。一緒に行きたいというかたは、どうぞ。釣竿は用意しますので、道具の心配は不要です。
この夏は、竹村和子の「境界を攪乱する」(岩波書店)を読み、続いてジュディス・バトラーの「戦争の枠組」(筑摩書房)を読みました。
なかなか、読みこめないというか、頭にすっきり入ってくるわけじゃないのですが。で、感じたことなど。
まず、「境界を攪乱する」は、主にバトラーが題材となっている。ここであらためて知ったのは、リュス・イリガライ→バトラーという流れ。
イリガライはフランスのフェミニズム思想家。代表的な著作は「ひとつではない女の性」で、まあ、タイトルで内容をかなり説明しているかな。
バトラーのクイア理論と重ねていくと、性は明確に男女に分けられるようなものではなく、そこにさまざまなものが入ってくるということ。ゲイ、レズビアン、トランスセクシュアル・・・。ということで、男女の境界は攪乱されるわけ。
で、そのバトラーが、クイア理論を下敷きにしたまま、9.11以降の戦争について、論じる。
グアンタナモ収容所で示されたのは、女性兵士がイスラム系の捕虜に対して性的な拷問を加えている写真。これを中心に、戦争を論じるということ。
で、感じたこと。
そもそも、ジェンダーとセックスというのはまったく関係がないのではないか、ということ。そもそも、フェミニズムでは社会的性差としてのジェンダーを否定する方向にあった。でも、ジェンダーが示すことはそもそも、性差なのではなく、マジョリティがマイノリティと区別するために一方的に境界をつくる、そうした作業の結果なのではないか。
もちろんここで言うマジョリティというのは、単純に多数派ということではなく、社会的な権力の総体としての多数派ということで。
そうすると、男性社会において、ジェンダーは男性という属性によって定義されたものということになる。
性に関係なく、こうした境界の設定は、もっとたくさんある。民族や被差別部落。所得だってそうだ。低所得者というジェンダーにおいては、さまざまな権利を奪われることになる。大人に対して、子どもはすっかりマイノリティになってしまっている。子どもという定義は、言うまでもなく大人がつくったものだ。
では、境界を設定する側は何を守りたいのか。利権だろうか。それもある。けれども、その利権はアインデンティティによって口当たりのいいものにされていく。そして、そのアイデンティティを守るために、戦争が実行される。個別にマイノリティ側の人々は、マジョリティ側に移動しようとする。男になりたいバリ女、早く大人になりたい子ども。
例えば、安倍政権を考えてみる。彼らはマジョリティとして自分の利権を守りたい。そこに、アイデンティティが重なる。尖閣諸島を舞台にして、日本人というアイデンティティを口実に、それを守るために、好戦的な姿勢をとる。その姿は、男性というアイデンティティを口実に、男性側の利権を守るための、「女性手帳」や「育休三年」といった政策が提案されることと、同じということだ。
安倍政権は、マジョリティのアイデンティティを満たし続ける限り、安泰なのだろう、と思う。そうしたとき、あらためて、境界を攪乱しなくてはいけないと思う。
ということとはまったく別に、藤本由香里の「きわきわ」(亜紀書房)の痛みというのも、考えてしまうのですが。
(おかげで、姫野カオルコやヤマシタトモコや菜摘ひかるの本を、つい買ってしまいました)
えーと、今は、クリストファー・プリーストの「夢幻諸島から」(早川書房)を読んでいます。プリーストの新刊が読めるなんて、って思いながら。
では、もうすぐ食欲の秋、ということで。