ラッシャー木村のこと

tenshinokuma2010-05-25

 「クラバート」を読み始めた。
 それはさておき。

 ラッシャー木村の訃報に接して、何か遠い話のような気がした。でも、引退したのは2004年だったんだね。

 ぼくにとって、ラッシャー木村ジャイアント馬場アントニオ猪木以上に、プロレスラーとして重い存在だった。
 あまり知られていないけれど、全日本、新日本、国際という3団体があったときに、ラッシャー木村国際プロレスのトップであり、同時に唯一の世界チャンピオンだった。ただし、これは国際プロレスがNWAやWWWF(当時)と提携していない、独立した団体だったからなんだけども。馬場のPWFも猪木のNWFも世界チャンピオンではなかった。

 ラッシャー木村がプロレスラーとしての影の部分を背負っていたというのは、マイナーな団体だったからだけじゃない。そもそも、木村以前に、もっと日の当たるレスラーはたくさんいた。グレート草津ストロング小林サンダー杉山、そして助っ人のビル・ロビンソンも。そうした中にあって、木村は金網デスマッチで自分のポジションを築くのだけれども、でもそれは放映されないカードだ。結果として、こうしたレスラーが消えるまで、影の存在だった。だって、金網デスマッチは、初期はテレビで、「木村が勝ちました」という写真とアナウンスだけだったのだから。でも、それは、会場でしか見られないというカードでもあった。

 その後も、国際プロレスは、アニマル浜口マイティ井上鶴見五郎稲妻二郎、阿修羅原などなど、いろいろなレスラーがいた。最近、鶴見は泥棒をつかまえたので、ちょっと話題になったかもしれない。浜口は、京子の父親としてあまりにも有名。それから、レフェリーの遠藤光男は、どう見てもレスラーより強そうだった。

 結局、国際プロレスが倒産し、木村は浜口らとともに新日本プロレスに活路を求める。しかし、あまりにまぬけなパフォーマンスで、どうしようもないまま、全日本に。馬場の相手として、マイクパフォーマンスで、再び人気者になる。
 こうして書いてみると、不器用のかたまりみたいなプロレスラーだったなって思う。でも、そうした姿は、猪木は馬場に劣らないほど、プロレスラーらしい存在なんじゃないかとも思うのだ。

 冥福をお祈りします。